■北裡の裏路地
表通りから一歩入ると裏路地が続き、車が通れないほどの幅と表通りとは全く違う雰囲気が漂っていて、違う土地に来てしまったのでは?違う時代に来てしまったのでは?と軽い錯覚を起こすほどです。
この裏路地は、以前この辺が田園で道が拡張されなかったために「あぜ道」または「水路」の名残をとどめています。この裏路地は猫たちの通り道でもあり、あちこちで可愛い猫たちと出会うことができます。
初めて来てもどこか懐かしい裏路地、ゆっくりと歩いてみてはいかがでしょう。
■最上位稲荷神社跡(さいじょういいなりじんじゃあと)について
最上位稲荷は、北裡花柳界の発展と地区住民の守護守としてまつられてきました。何度も引っ越しをした忙しい神様で、仲間町の四番地演舞場に社殿が造営され、昭和57年に現在地に社殿を鎮座しました。
■慈恩寺(じおんじ)の聖観音菩薩
以前、現在NTTの場所に慈恩寺(現・春日町)が建立されていました。この寺の聖観音菩薩を拝むと裕福な羽振りの良いお客さんを招くと言われ、仲間町や宮町で働いていた芸妓さんたちの間で信仰され、通称「色観音(いろかんのん)」と呼ばれていました。現在「福島市指定有形文化財」に指定されています。
■世良修蔵霊神碑
世良修蔵(せらしゅうぞう)天保6年(1835年)。幕末の長州藩士で、1868年4月に仙台藩士から暗殺されたのをきっかけに戊辰戦争が始まりました。世良が暗殺された舞台がこの北裡で、金沢屋(現・日産)で寝込みを襲われ、当時隣接していた客事軒(現もみじガレージ)に引き立てられた後、阿武隈河原で斬首されました。その世良が手厚く葬られた後、稲荷神社北東に霊神碑が建てられ、今でもお酒や花が供えられています。
■紅葉館跡
世良修蔵が襲撃された後に引き立てられた旅館で、以前は客自軒と呼ばれていました。町屋造りと略式化された数寄屋造りが特徴で、明治中期に入って所有者が代わり福島の自由民権運動の中心人物であった河野広中が「紅葉館」と名付けました。昭和まで使用されていましたが、老巧化が進み建物の痛みも激しくなったため、昭和61年に解体された後、平成4年8月に福島市民家園に移設・復元され「福島市指定有形文化財」に指定されています。
■福島税務署跡
現在の福島県労働福祉会館・福島県労働金庫の場所には、大正3年から福島税務署がありました。この建物は、明治32年に県会議事堂が改築されたため、その払い下げを受けて建てられた木造の公会堂が利用されました。
■私立成蹊高等女学校跡
大正2年に万世町に創立された私立成蹊女学校でしたが、翌3年に旧公会堂控室を借り教室を増設した後、現在の学校法人福島文化学園の敷地で「私立成蹊高等女学校」となり、昭和34年の上浜町移転まで女学生が勉学に努めていました。
■馬頭観音
慶長5年、現在の国道4号線沿いのお堂脇、約230メートルものせり駒馬場(馬の競市)が設けられました。豊田町は以前、馬喰町または馬労町と呼ばれていて、馬の仲買商人たちで賑わっていました。その北隅に領民の安泰と五穀豊穣、馬の守り神として馬頭観世音菩薩が安置されたのです。元禄に入ると火災でお堂は焼失しますがすぐに再建され、昭和37年4号線の建設のため約100メートル南の現在地に移転されました。現在も当時利用されていた御影石製の「牛馬給水用」と刻まれた馬の水呑み場が残されています。
■新開座跡
明治25年に駅前に造られた芝居小屋が移転して、現在のセントラルハイツの場所に新開座というお芝居中心の劇場がありました。歌舞伎役者や舞台役者が興行し、北裡に一層の華を添えました。後に東映映画館、東映ボウルと変わって現在に至ります。
■東宝映画館跡
現在の福島斎場東側の駐車場が東宝映画館でした。「姿三四郎」や「七人の侍」でお馴染みの黒澤明作品、「ゴジラ」や「モスラ」がシリーズ化された円谷英二作品、クレイジーキャッツ主演の「無責任シリーズ」や加山雄三主演「若大将シリーズ」など数々のヒットをとばした作品が上映され、後に置賜町のジャガービル脇に移転されました。
■松竹映画館跡
現在はなかつねの隣、ライオンズマンション仲間町が建っているところにありました。上原謙、佐野周二、鶴田浩二、佐田啓二、菅原文太、石坂浩二、水谷八重子、田中絹代、高峰秀子などスター俳優を輩出し、日本初のトーキー映画「マダムと女房」や日本映画の最高傑作と言われる「東京物語」、「男はつらいよシリーズ」などを上演していました。
■日活映画館
創立時の名称だった「日本活動写真株式会社」を省略して呼ばれた「日活」は、現在の福島斎場の場所にあり、片岡千恵蔵、沢村貞子、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、岡田真澄など多くの俳優を起用し、若者向けの映画を中心に上映されていました。
■稲荷東小路跡
明治32年頃は、現在新町にある金源ビル右脇の路地を「御山通(おやまとおり)西小路」、宮町の本法寺脇から稲荷神社までの路地を「御山通東小路」と呼び、後に御山通が稲荷に変更されました。 稲荷西小路は分かるが東小路なんて無いと思われる方もいるでしょうが、昭和初め頃までは稲荷神社と西脇にある駐車場と中央公園の間にあったのです。また地図を見てみると稲荷神社が新町と宮町に分かれて点線が入っていることから見ることができます。 この東小路が使われなくなったのにはワケがありました。道が封鎖される以前、稲荷東小路には、大人の社交場として料理や酒が安いと評判の小料理屋が建っていました。夜になると人が集まり宴や喧嘩、逢い引きなどでとても混雑していましたが、神様の近くで不道徳な行いはけしからんという声が上がり、小料理屋は駅方面に移転し、同じことが繰り返されないようにと封鎖してしまったのです。稲荷神社へ行った際に、覗いてみてはいかがでしょうか、当時の賑やかな声が聞こえてくるかもしれません。
■福島稲荷神社
平安時代、安倍晴明が杉妻荘の鎮守として祀ったと伝えられていますが、農業神として崇拝されてきました。また、伊勢神宮外宮の御祭神豊受比売命(とようけひめのみこと)を祀った稲荷として全国的に珍しい神社でもあります。 社殿の北側には、樹齢200年以上のハルニレの木があり、福島藩主であった板倉勝里が元文5年(1740年)稲荷神社社殿を改築した際に植樹したと言われ「福島市指定天然記念物」に指定されています。また、福島藩主が奉納したと絵馬も「福島市指定有形文化財」となっています。 祭礼としては1月の「歳旦際」、2月にある「節分祭」や「初午祭」、「秋の例大祭」などが挙げられますが、他にも多くの祭礼があり古くから執り行われてきました。その中でも最も重要とされている「秋の例大祭」は、江戸時代の頃に福島城下の総鎮守の祭礼とされ、城主在城の年は「本祭り」その他を「陰祭り」と呼んでいました。祭りでは、山車や神輿、屋台が城中へ繰り出し風物詩とされましたが、年々贅沢で派手になってきたことから、宝暦4年(1745年)お上より中止の命令が出されたこともあったそうです。現在は、厳粛かつ盛大に行われ神幸の一つとして「連山車」と言われる、福島市内にある各町内の山車が集合し、太鼓やお囃子の演奏などが行われるほか、神社を中心として多くの露店が並び大変多くの人々が訪れています。また、年に一度氏神が宮を出て町内の社を巡る「渡御行列(とぎょぎょうれつ)」では、北裡商店街の幼い女の子たちが「八乙女(やおとめ)」と言われる巫女の格好をして市内を巡っています。